2012年12月30日日曜日

鷲宮神社

 
 
【ご祭神】
天穂日命
武夷鳥命
大己貴命
 
 
【訪問メモ】
関東最古の大社。また、お酉様の本社とされる。
今では「らき☆すた」の舞台として有名かもしれない。
(訪問時もイタ車が1台あった。)
 
 
 
社伝によれば、天穂日命が東国を経営するために武蔵国に到着し、
天穂日命のお供の出雲族と地元の部族が当地の鎮守として大己貴命を祀ったのに始まると伝える。
 
また、土師の宮(はじのみや)とも言われ、東国へ移住した土師氏が先祖を祀ったのが起源ではないかと言われている。そして、「はじのみや」がいつしか訛って、現在の「わしのみや」になったとされる。
 
 
明治時代には、准勅祭社に定められた。
 
 
拝殿が1つで、本殿が2つという面白い構造。
 
ちなみに、上の写真左手が鷲宮神社本殿で天穂日命と武夷鳥命を祀り、
右手は別宮の神崎神社で大己貴命を祀っている。
 
 
神社奥の鎮守の杜は清々しく、心身をリフレッシュさせてくれる居心地のよい神社であった。
 
 

2012年12月29日土曜日

湯島天満宮

【ご祭神】
天之手力雄命
菅原道真
 

【豆知識】
社伝によれば、雄略天皇2年(458年)1月、雄略天皇の勅命により天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祀る神社として創建されたと伝えられる。
 
南北朝時代の正平10年(1355年)、住民の請願により菅原道真を勧請して合祀した。
 
訪問して初めて、湯島天神は道真ありきではなく、後から合祀されたということを知った。

平成12年(2000年)3月31日、「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称。
 
なお、「湯島」の地名は、江戸時代以前、海から見るこの地があたかも島のように見えたことからついたとされる。
 
今の不忍池は海につながっており、根津に港があったらしい。
 
 
 
【訪問メモ】
年末にも関わらず、境内はなかなかの賑わい。

天満宮らしく撫で牛もいる。
 
菅原道真と牛との関係は深く、
 
・大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送った
・道真には牛がよくなつき、道真もまた牛を愛育した
・牛が刺客から道真を守った
 
など牛にまつわる伝承や縁起が数多く存在する。
 
文豪の地・本郷らしく、境内には泉鏡花の筆塚なるものもある。
 
小説「帝都物語」にて加藤保憲が辰宮由佳理が柄杓占いをするシーンで湯島天神が登場する。
 

 

荏原神社

 
 
【ご祭神】
 
高龗神
豊受姫之神
天照皇大神
須佐男之尊
手力雄之尊
 
 
【豆知識】
元准勅祭社。ただし、東京十社には入っていない。
 
荏原神社はこれまで、品川神社、品川貴船神社などと呼ばれたことがあり、現在の品川神社は品川大明神や品川稲荷明神社などと呼ばれていたため、准勅祭社は荏原神社だという説もある。
 
昭和50年に東京十社巡りを企画した時は、品川神社神主小泉帯刀(准勅祭社指定当時の神主)の文書を根拠に品川神社説を採用したとのこと。
 
准勅祭社は明治元年に定められ、明治3年に廃止されており、実質機能せずに終わった制度なので、あまり文献が残っていないのかもしれない。
 
 
 
社伝によると、創建は元明天皇の御代、和銅2年(709年)、奈良の丹生川上神社より高神(龍神)を勧請したことに始まる。
 
宝治元年(1247年)6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見され、京都の八坂神社から牛頭天王を勧請。
 
東京モノレールの駅名にもなっている「天王洲(アイル)」の地名はこれが由来。
 
 
また、目黒川を挟んで北の天王社が品川神社、南の天王社が荏原神社と呼ばれている。
 
現在の荏原神社は目黒川の北にあるが、昔は目黒川が荏原神社の北側を巻いて流れていたとのこと。
 

品川神社

 
 
【ご祭神】
天比理乃咩命
素盞嗚尊
宇賀之売命
 
 
【豆知識】
東京十社の一つ。
 
文治3年(1187年)、源頼朝が安房国の洲崎神社から天比理乃咩命を勧請して祀ったのに始まると伝えられる。
 
頼朝はここに限らず、よく神社を勧請したり、寄進をしている。
頼朝は流人の身から、坂東武士に担がれ、征夷大将軍にまで登り詰めた人物であるが、
流人なので当然、直属の武士団などおらず、一人では何もできない立場だった。
 
頼朝が作った武家政権の長になれたのも、北条をはじめとした坂東武士団の協力があってこそできたものであり、故に頼朝は御家人達に相当気を使っている。
 
この地は品川氏が管理していたが、品川氏は頼朝の随兵に選ばれるなどかなり厚遇されている。
この地には湊があり、品川氏は伊勢から品川までの太平洋航路にも関わっていた重要人物である。
 
その後、鎌倉時代後期に宇賀之売命、室町時代に素盞嗚尊も祀られるようになった。
 

 
 
【訪問メモ】
品川神社には、明治時代に造られた富士塚がある。
富士塚とは、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遙拝場所として、或いは実際に富士登山の出来ない講員のために造った築山である。
 
 
 
富士塚は溶岩で形成されており、山道には五号目、八号目などの標識も立っていて面白い。
 
 
 
山頂からの景色は、近隣の高層ビルに視界が遮られているものの、なかなかのものである。
 
 
 
この品川神社で東京十社めぐり完了。
 
 

2012年12月20日木曜日

亀戸天神社

 
 
【ご祭神】
天満大神(菅原道真)
天菩日命(菅原氏の祖神)
 
 
【豆知識】
東京十社の一つ。
江戸時代の創建と歴史は新しい。

太宰府天満宮の神官・菅原大鳥居信祐(菅原道真の末裔)は、
天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡っていたところ、
1661年に、江戸の本所亀戸村にたどり着き、
元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
 
当時、明暦の大火(1657年)による被害からの復興を目指す江戸幕府は
復興開発事業の地として本所の町を定め、
四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう現在の社地を寄進した。
 
<明暦の大火>
 
 
そして1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが
太宰天満宮に倣い造営されたという。
 
 
 
【訪問メモ】
境内の至るところに藤棚が設置されており、ゴールデンウィークの頃に一斉に開花し、
神社中が一面藤色に染まるらしい。
江戸時代から亀戸の藤と呼ばれた藤の名所である。
 
 

芝大神宮


 
 
【ご祭神】
天照皇大御神
豊受大御神
 
 
【豆知識】
東京十社の一つ。
起源は、武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」に創祀された神明社とされる。
社伝によれば、一条天皇の御代、寛弘2年(1005年)に、
伊勢の内外両宮を勧請して創建したといわれる。

源頼朝は元暦元年(1185年)と建久4年(1193年)の2度に亘って神領を寄進し、
特に後者においては自ら社参の上1300余貫の地を神田として寄進したという。

慶長3年(1598年)、増上寺が旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、
現在地へ奉遷した。

江戸時代には、伊勢参りの代わりとして参詣者が増え、賑わっていた模様。
今でも参道には飲食店が立ち並び、賑わいをみせている。

明治元年(1868年)に准勅祭社に指定され、
翌2年(1869年)の長雨に際しては7月3日(8月10日)に朝廷より
止雨祈祷の依頼があるなど厚遇された。
 

ちなみに、「大神宮」とは、伊勢の皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)の総称であり、
全国にある「◯◯大神宮」はこの2柱を祀っている神社である。
 

白山神社

 
 
【ご祭神】
菊理姫命
伊弉諾命
伊弉冉命
 
 
【豆知識】
旧称白山権現社。東京十社の一つ。
この一帯の地名「白山」の由来はこの神社から。

天暦2年(948年)、加賀国の白山比咩神社から勧請を受けて、
武蔵国豊島郡本郷元町(現在の本郷1丁目)に創建。
修験色の強い神社である。

修験道は、山へ籠もって厳しい修行を行うことにより、悟りを得ることを目的とする山岳信仰であるが、
鉱脈を求めて、全国を巡っていたという側面もある。
白山信仰も、産鉄民集団が各地に鉄を求めて移り住み、全国に広まったといわれている。

その後、元和年間(1615年-1624年)に将軍徳川秀忠の命で巣鴨原(現 小石川植物園内)に移り、
明暦元年(1655年)、その地に館林藩主徳川綱吉(後の5代将軍)の屋敷が作られることになったため、
現在地に遷座した。
 
その縁で綱吉とその母桂昌院の崇敬を受け、以降、徳川将軍家から信仰されたという。

 
 
【訪問メモ】
この白山神社、東京十社の中でご朱印をいただくのが一番ハードルが高いと言われている。
私も11月に訪れた時は社務所がお休みで、ご朱印をいただけなかった経緯がある。
ご朱印巡りで訪れる際は電話で確認してからの方がいいだろう。
 
なお、白山神社では、ご朱印は予め半紙に書いておいたものをいただく形式を採っている。
 

2012年11月22日木曜日

厳島神社

 
 
【ご祭神】
 
宗像三女神
・市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
・田心姫命 (たごりひめのみこと)
・湍津姫命 (たぎつひめのみこと)
 
 
【豆知識】
安芸国一宮。ユネスコ世界文化遺産。日本三景の一つ。
 
社伝では、推古天皇元年(593年)、
この地方の有力豪族・佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、
勅許を得て社殿を創建したのに始まるとされる。
 
現在と同程度の大規模な社殿になったのは、平安末期、平清盛が安芸守になってから。
平家一門の隆盛とともに当社も栄えて平家の氏神となった。
 
当時の社殿は火事で焼失し、現在残る社殿は仁治年間(1240年-1243年)以降に造営されたもの。
 
境内の沖合に立つ大鳥居は圧巻。
現在のものは平清盛の造営時から8代目、明治時代に作られたものである。
 
この鳥居、柱が海中に埋められているわけではなく、
花崗岩と主柱1本につき約100本打った基盤の上に立っている。
 
また、屋根の下の内部は空洞で多くの経石が納められており、総重量は5tにも及ぶ。
この重量があることで大鳥居の自重が浮力に勝ち、自立することが可能となっている。
 
 
現代人の感覚からすると、
鳥居に経石、平家納経と、神道・仏教ごちゃ混ぜであるが、
明治時代以前は神仏習合が当たり前であり、
厳島神社もそれまでは隣にある大願寺が管理していた。
 
 
 
【訪問メモ】
訪問時は丁度干潮の時刻で、鳥居の下まで歩いて行くことができた。
真下から見る大鳥居は正に圧巻。その大きさに圧倒される。

朱塗りの神殿は美しく、どれだけいても飽きがこない。
 
建築技術も素晴らしいが、海上に神殿を作るという発想が何より素晴らしい。
 
 
 
隣の丘に立つ千畳閣は豊臣秀吉の造営。
豊臣秀吉は毛利家に対し、中国大返しの恩があるので、
かなり気を使っていたことを伺わせる。
 

厳島神社は、満潮時、干潮時で、見せる表情が全く異なるため、
弥山を観光したりして時間を調整し、両方見ることをお勧めする。
 
弥山は伊藤博文が「厳島の真価は弥山からの眺望に有り」と絶賛したと言われる絶景である。
 
 


 

2012年11月16日金曜日

赤坂氷川神社

 
 
【ご祭神】
 
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
大己貴命 (おおなむぢのみこと)
 
 
【豆知識】
東京十社の一つ。
創建は平安期となかなか古い。

赤坂氷川神社の由緒によると、
 
村上天皇の御代(951年)、天暦年中に近江国甲賀の郡の蓮林僧正という人が
東国修行のついでこの地で一夜を明かした時に、夢に一人の老翁出てきて、
 
「私は この土の中に埋もれて永い時間を過ごしている者である。
早くここから掘出して安置すれば、この地の守護神となりましょう。
その場所には、何らかの兆しがあります」
と伝えた。
 
目が覚めた上人は不思議な夢だと思いつつ、
辺りを見渡してみると一ヶ所金色に光っているところがある。
急いで掘ってみると、十一面観音像が出てきました。
やがてこの地に社を建てて安置し、「一木村の観音」と名付けました。
 
とのこと。
 
 
 
現在の地に移ったのは、時代をかなり下って江戸時代のこと。
八代将軍 徳川吉宗の命により、が享保15年(1730年)4月26日に、
一ツ木台地から現在地への遷宮が行われたのこと。
 
社殿は現在もそのままの状態で保存、使用されており、東京都有形文化財にも指定されている。
 
 
【訪問メモ】
境内はここが赤坂、六本木界隈にあるとは思えないくらい静寂に包まれていて気持ちがいい。
都会のオアシス的な場所である。
 
ちなみに、氷川きよしの「氷川」 は、この神社から取っている。
 

上野東照宮

 
 
【ご祭神】
徳川家康(東照大権現)
徳川吉宗
徳川慶喜
 
【豆知識】
上野東照宮は、寛永4年(1627年)、藤堂高虎により上野の高虎の敷地内に創建。
 
社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
 
 
【訪問メモ】
現在、上野東照宮は改修工事中で、残念ながら社殿を見ることはできない。
(社殿の写真が保護シートにプリントされている)

 
上野東照宮のご朱印は、ご朱印帳に直接書いていただけるのではなく、
予め半紙に書かれたものをいただく形式を取っている。
 
 

2012年11月3日土曜日

根津神社

 
 
【ご祭神】
須佐之男命
大山咋命
誉田別命
 
 
【訪問メモ】
東京十社の一つ。
いかにも江戸らしい権現造の社殿である。
 
1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したとされるが詳細は不明。
文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。


現在の社殿は宝永3年(1706年)の創建。
社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。
 
この界隈は、夏目漱石や森鴎外などの文豪が居を構えていたこともあり、
根津神社は近代文学の作品に暫し登場している。
 
 
この日は七五三詣の家族連れが多かった。
 
 
 

2012年10月28日日曜日

中山神社(中氷川神社)

 
 
【ご祭神】
大己貴命(おおなむちのみこと)
 
 

【豆知識】
創建は崇神天皇2年(紀元前95年)。
氷川女體神社と同年代の創建である。
 
氷川神社の記事でも書いたが、中山神社は氷川神社と氷川女體神社の直線上にあり、
見沼を挟んでちょうど中間に位置する。


太陽は、夏至には西北西の氷川神社に沈み、
冬至には東南東の氷川女體神社から昇る稲作で重要な暦を把握する配置となっている。
 
氷川神社、氷川女體神社、中山神社の三社で一体の氷川神社を形成しており、
三社の祭神も
  • 氷川神社:須佐之男命(父)
  • 氷川女體神社:奇稲田姫(母)
  • 中山神社:大己貴命(子)

と親子関係である。

 
高度な測量技術と暦に関する知識を有した集団が流入し、見沼周辺を開拓したことを想像させる。

 
【訪問メモ】
訪問日は 雨も降っていたため、参拝者は一人もいないのでは?と思っていたが、
私以外にもご朱印目的の参拝者が1組。
 
地味な神社だが、なかなか人気があるようだ。
 

2012年10月16日火曜日

富岡八幡宮

 
 
【ご祭神】
品陀和気命(ほんだわけのみこと、応神天皇の諡号)
 
 
【訪問メモ】
東京十社の一つ。
創建は1627年と新しい。
 
江戸開府初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、
波除八幡の異名をとる富岡八幡宮(横浜市)を分霊したとのこと。
 
 
 
境内には、日本最大の神輿、横綱力士碑、伊能忠敬像など、見所も多い。

 

神田明神(神田神社)


 


【ご祭神】
大己貴命
少彦名命
平将門命

 
【豆知識】
江戸総鎮守。東京十社の一つ。

 

 
社伝によると、創建は天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村(今の大手町付近)に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのが始まるとされる。
 
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
 
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られたが、天変地異が頻発したため、この神社の相殿神として祀った。
 
江戸時代に現在地へ遷座。
以上のように、元々は将門は本殿に祀られていたが、
明治7年、明治天皇が行幸するにあたり、
 
「朝敵である平将門が祀られているのはあるまじき」
 
ということで、平将門が祭神から外され、摂社に遷されるとともに、少彦名命が勧請される。
 
将門が本社祭神に復帰したのは昭和59年というから、つい最近の話である。
本社復帰とはいえ、三の宮扱いなので、完全に元に戻ったというわけではない。
 
あまりぞんざいな扱いをすると、それこそ将門に祟られますよ。
 

 

また、神田明神下の長屋に銭形平次が住んでいたという話も有名である。
(念のため、銭形平次は小説の人物であり、実在はしません)
 
境内には銭形平次の碑もあるが、発起人がフジテレビというのが笑える。