2013年9月27日金曜日

兜神社

 
 
【ご祭神】
倉稲魂命
相殿 大国主神、事代主命
 
 
【訪問メモ】
兜町の東京証券取引所の隣にこじんまりと鎮座。
元々は兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、明治時代になって兜神社として社を創建したもの。
社務所はなく、御朱印は頒っていない。
 
 
【豆知識】
由緒はなかなか複雑である。
 
江戸時代には、兜塚と鎧稲荷は存在しており、既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
 
明治4年、東京商社(三井物産の前身)の移転に伴い、兜塚と鎧稲荷は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。
この時、兜塚として祭られていた源義家を、兜神社として社を創建して祀り、
更に鎧稲荷と合併して、兜神社として定められた。
 
 
 
兜岩の由来には、諸説あるが、その裏付けとなるものは何も残っていない。

・源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といつた。

・前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。

・俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば弦に埋めて塚となし兜山と云う。
 
 
 
また、鎧の渡しの由来も諸説あり、やはり源義家または平将門が関わっている。
 

・源義家が奥州平定の途中、ここで嵐に遭遇し、船が沈みそうになったので、鎧一領を投じ、龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを「鎧が淵」と呼んだ

・平将門が兜と鎧を納めた
(兜塚では、俵藤太が埋めたことになっているが、鎧の渡しでは将門自信が納めたことになっている)
 
 
 
その後、明治7年、祭神源義家公の祭祀を廃止(!)
新たに三井家の信仰していた三囲稲荷神社の境内摂社である福神社より
大国主命と事代主命のこ分霊を勧請して合祀。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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