2013年9月28日土曜日

水天宮

 
【ご祭神】
天御中主神
安徳天皇
高倉平中宮(平徳子)
二位の尼(平時子)
 
 
【訪問メモ】
五年ぶりくらいに訪問したら、社殿建て替え中で境内に入れなかった。
なんでも、耐震性に難があったとか。
 
旧社殿の取り壊しはまだ行われておらず、外から眺めることはできます。
 
仮宮は数百メートル先の明治座の隣に鎮座。
これから行かれる方はご注意ください。
 
 
【豆知識】
水天宮の歴史を紐解くと、
壇ノ浦の合戦後、建礼門院に仕えていた官女が、二位の尼にの命により、
福岡県久留米市に祠を建て、安徳天皇をはじめ平家一門の霊を祀たのが、
水天宮の始まり。
 
文政元年(1818年)、久留米藩主有馬頼徳が久留米藩江戸上屋敷に
分霊を勧請したのが江戸の水天宮の始まり。
藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、
水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出され、毎月5日に開放。
 
かなりの人気を博し、「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上が
年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入になったとか。
 
 
そんな歴史の薀蓄よりも、この神社を有名にしているのは、戌の日の安産祈願。
我が家もかつてお世話になりました。
 
その昔、古くなった鈴の緒をいただき、腹帯として用いた人がいました。
安産を祈願したところ、ことのほか楽なお産ができたところから、
人づてにこのご利益が広まったとのこと。

 

2013年9月27日金曜日

兜神社

 
 
【ご祭神】
倉稲魂命
相殿 大国主神、事代主命
 
 
【訪問メモ】
兜町の東京証券取引所の隣にこじんまりと鎮座。
元々は兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、明治時代になって兜神社として社を創建したもの。
社務所はなく、御朱印は頒っていない。
 
 
【豆知識】
由緒はなかなか複雑である。
 
江戸時代には、兜塚と鎧稲荷は存在しており、既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
 
明治4年、東京商社(三井物産の前身)の移転に伴い、兜塚と鎧稲荷は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。
この時、兜塚として祭られていた源義家を、兜神社として社を創建して祀り、
更に鎧稲荷と合併して、兜神社として定められた。
 
 
 
兜岩の由来には、諸説あるが、その裏付けとなるものは何も残っていない。

・源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といつた。

・前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。

・俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば弦に埋めて塚となし兜山と云う。
 
 
 
また、鎧の渡しの由来も諸説あり、やはり源義家または平将門が関わっている。
 

・源義家が奥州平定の途中、ここで嵐に遭遇し、船が沈みそうになったので、鎧一領を投じ、龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを「鎧が淵」と呼んだ

・平将門が兜と鎧を納めた
(兜塚では、俵藤太が埋めたことになっているが、鎧の渡しでは将門自信が納めたことになっている)
 
 
 
その後、明治7年、祭神源義家公の祭祀を廃止(!)
新たに三井家の信仰していた三囲稲荷神社の境内摂社である福神社より
大国主命と事代主命のこ分霊を勧請して合祀。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年9月23日月曜日

宝登山神社 奥宮

 
【ご祭神】
神日本磐余彦尊
大山祗神
火産霊神
 
 
 

【訪問メモ】
神社創立ゆかりの地、宝登山山頂に鎮座。
神社創立と日本武尊のエピソードは前項「宝登山神社」を参照。
 
本来であれば、宝登山神社から歩いて訪問するべきところであろうが、
連れがいたため、ロープウェイで登頂。
ロープウェイの山頂駅からは徒歩5分程度。
 
 
 
 

宝登山神社

 
【ご祭神】
神日本磐余彦尊(神武天皇)
大山祗神
火産霊神
 
 
 
 
【訪問メモ】
秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の一社。
宝登山山頂には奥宮が鎮座。
 
 
拝殿の欄間の彫刻が鮮やか。
 
 
 
【豆知識】
神社の由緒は、いただいたパンフレットによると以下の通り。
 
今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、
とその軍勢が東国地方平定の折、
宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。
日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、
森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、
尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。
一隊は頂上へ向かって登り始めました。
が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。
そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。
山火事です。
黒い煙は、あっという間に火の波に変わりました。
尊は兵をはげましながら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、
枝を切って猛火と戦いました。
けれども火の勢いは強くなるばかり。
一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。
尊の命も危うくなりました。
その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。
影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。
影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。
犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。
そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。
すっかり火が消えました。
犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、
犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。
さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。
頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。
影のように現れた犬たちは影のように消えていました。
「おお、やはりあの犬たちは"山の神のお使い"に違いない。
本当にありがとうございました。」
日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。
頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。
日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、
"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、
「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
の三社をお祀りになりました。
これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。
その後「火止山」は霊場として栄え、
弘仁年中(810-824年)に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、
山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。
 

2013年9月22日日曜日

和楽備神社

 
【ご祭神】
誉田別尊
 
 
【訪問メモ】
以前、蕨市に住んでいたこともあったが、行ったことがなかったので訪問。
市の大きさ(蕨市は全国一面積が狭い市)、老朽化した市役所とは対照的に、社有地は広く、新しい社殿であった。
 
 
 
【豆知識】
創建は不明だが、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりとのこと。
明治44年(1911)12月15日町内の18社を合祀して「和樂備神社」と改称。
 
 
 
この地で1946年(昭和21年)から開催されている成年式が成人式のルーツといわれており、神社の隣にある蕨城址公園には、「成年式発祥の地」の記念像が建っている。
 
 

2013年9月20日金曜日

水稲荷神社

 
【ご祭神】
倉稲魂大神
佐田彦大神
大宮姫大神
 
 
【訪問メモ】
会社帰りの夜間に訪問。
(そのため、写真が少ない)
 
かつては、御朱印に応じていたようだが、今は頒っていないようだ。
規模が大きくない神社では、神社に常駐することが難しく、御朱印に応じるのも負担になるのかもしれない。
 

【豆知識】
941年、藤原秀郷が冨塚の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷と命名。
 
1702年(元禄15年)、神木の椋の根元より霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名。
 
1788年(天明8年)、「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。
 
1963年(昭和38年) 、早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家の下屋敷)である現社地に遷座。
 
加門七海の著書『平将門魔方陣』において、 東京23区内にある平将門ゆかりの寺社の配置が北斗七星ラインを構成していると指摘しており、水稲荷神社はそのうちの一社と紹介している。
 
一方、高田崇史の著書『QED 〜ventus〜 御霊将門』における都内将門ツアーには、水稲荷神社は登場していない。