2012年5月27日日曜日

氷川神社

 
 
 
【ご祭神】
須佐之男命
奇稲田姫命
大己貴命
 
 
【豆知識】
式内社(名神大社)、武蔵国一宮または三宮。
明治元年には勅祭社と定められた。
東京都・埼玉県近辺に約200社ある氷川神社の総本社でもある。
 
社伝によれば、孝昭天皇3年(紀元前473年)4月に創建。
 
『国造本紀』によれば、景行天皇の代に出雲の氏族が須佐之男命を奉じてこの地に移住したと伝える。
社名の「氷川」も出雲の「簸川」に由来するという説がある。
 
摂社に「門客人神社」(元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた)があり、アラハバキが「客人神」として祀られている。
 
明治元年(1868年)10月17日、東京入都の4日目に明治天皇は当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めた。
10日目には大宮に行幸し、10月28日に関東の神社の中で最初に親祭を行ったとのこと。
 
 
武蔵国内における氷川神社の位置付けには、一宮と三宮の2説がある。
武蔵国総社の大國魂神社では武蔵国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っているが、
ここでは「一宮:小野神社、三宮:氷川神社」である。
 
室町時代の資料『大日本国一宮記』に、氷川神社を一宮とする記述があることから、
室町時代以降に当社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したとする説がある。
 
『延喜式神名帳』には「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」と記され、
平安中期にはすでに社格の逆転があったと考えられるが、
今のところ、中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていない。
 
 
氷川神社・中氷川神社(中山神社)・氷川女体神社が冬至の日の出の線上に等間隔に一直線に並ぶことから、この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある。
 
 
また、この3社の直線上には浅間山があり、富士山と筑波山を結んだ線と、
浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点に位置する。
 
 
上図のように地図にプロットしてみると圧巻。
かなり高度な測量技術を持った一族がこの地を発展させたことがうかがえる。