2013年11月18日月曜日

鬼子母神堂



ご尊像


鬼子母尊神

豆知識


鬼子母神堂は法明寺の飛地境内にあるお堂である。
1561年(永禄4年)山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。
1578年(天正6年)現在の社殿を建立。

なお、当所における正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がなく、ご朱印もそのようになっている。



訪問メモ


私は基本的に、神社でしかご朱印をいただかないようにしているが(お寺まで手を出すとキリがないので)、雑司が谷まで来て、鬼子母神堂に行かないわけにはいくまい。

鬼子母神堂の脇には、ひっそりと鬼子母神像が立っている。

小説「姑獲鳥の夏」の舞台となった久遠寺医院は鬼子母神堂の近くにある設定。



大鳥神社(雑司ケ谷)




ご祭神


日本武尊
〈相殿〉倉稲魂命


豆知識


元は雑司ヶ谷鬼子母神(威光山法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂)の境内に鷺明神として祀られていた。

正徳2年(1712)松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった。託宣によって鷺明神に祈願したところ、霊験を得て快癒したため、雑司ヶ谷鬼子母神の境内に祀ったのが始まり。

明治の神仏分離により、鬼子母神を氏神とすることはできなくなったので、鷺明神を大鳥神社と改称して分離し、氏神とすることになったとのこと。




訪問メモ


訪問時、ちょうど酉の市が開かれており、多くの参拝者が参拝していた。






2013年10月10日木曜日

熊野神社



【ご祭神】
櫛御気野神
伊邪那美神



【豆知識】
中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に創建。
鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。
鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。

神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。

その後、神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成等により姿を消す。現在は、淀橋浄水場も廃止され、高層ビル街になっているが、熊野神社の一部は新宿中央公園として、新宿で働くサラリーマンのオアシスとなっている。


鎧神社

 
【ご祭神】
日本武命
大己貴命
少彦名命
平将門公
 
 
 
【豆知識】
鎧神社ホームページによると、創建は醍醐天皇の時代(898~929)。
理源大師の徒弟である 筑波の貞崇僧都、行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建。 その際、寺の鬼門鎮護のため当社が創建されたと伝えられてる。
創建以前から、日本武命東国平定のとき、この地に甲冑六具を蔵めたという伝説もあり。
 
また、
 
・天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧を埋めたという説
 
・将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったという説
 
があり、鎧を埋めたのは、将門側の人間なのか、秀郷側なのか、正直よくわからない。
 
 
 
【訪問メモ】
大久保駅を降り、中央線の線路沿いに閑静な住宅街を進むと、鎧神社が現れる。
 
摂社の天神社の狛犬は全国的にも珍しい狛犬型庚申塔で、新宿区指定有形民俗文化財に指定されている。
 

 

2013年9月28日土曜日

水天宮

 
【ご祭神】
天御中主神
安徳天皇
高倉平中宮(平徳子)
二位の尼(平時子)
 
 
【訪問メモ】
五年ぶりくらいに訪問したら、社殿建て替え中で境内に入れなかった。
なんでも、耐震性に難があったとか。
 
旧社殿の取り壊しはまだ行われておらず、外から眺めることはできます。
 
仮宮は数百メートル先の明治座の隣に鎮座。
これから行かれる方はご注意ください。
 
 
【豆知識】
水天宮の歴史を紐解くと、
壇ノ浦の合戦後、建礼門院に仕えていた官女が、二位の尼にの命により、
福岡県久留米市に祠を建て、安徳天皇をはじめ平家一門の霊を祀たのが、
水天宮の始まり。
 
文政元年(1818年)、久留米藩主有馬頼徳が久留米藩江戸上屋敷に
分霊を勧請したのが江戸の水天宮の始まり。
藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、
水天宮への一般参拝の許可を求める伺書を幕府へ提出され、毎月5日に開放。
 
かなりの人気を博し、「水天宮金」という賽銭や奉納物、お札などの販売物の売上が
年間2000両に上り、財政難であえぐ久留米藩にとって貴重な副収入になったとか。
 
 
そんな歴史の薀蓄よりも、この神社を有名にしているのは、戌の日の安産祈願。
我が家もかつてお世話になりました。
 
その昔、古くなった鈴の緒をいただき、腹帯として用いた人がいました。
安産を祈願したところ、ことのほか楽なお産ができたところから、
人づてにこのご利益が広まったとのこと。

 

2013年9月27日金曜日

兜神社

 
 
【ご祭神】
倉稲魂命
相殿 大国主神、事代主命
 
 
【訪問メモ】
兜町の東京証券取引所の隣にこじんまりと鎮座。
元々は兜塚として祭られていた源義家公の御神霊を、明治時代になって兜神社として社を創建したもの。
社務所はなく、御朱印は頒っていない。
 
 
【豆知識】
由緒はなかなか複雑である。
 
江戸時代には、兜塚と鎧稲荷は存在しており、既に当地の鎮守として又魚河岸へ出入りする漁民により信仰を集めていた。
 
明治4年、東京商社(三井物産の前身)の移転に伴い、兜塚と鎧稲荷は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。
この時、兜塚として祭られていた源義家を、兜神社として社を創建して祀り、
更に鎧稲荷と合併して、兜神社として定められた。
 
 
 
兜岩の由来には、諸説あるが、その裏付けとなるものは何も残っていない。

・源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といつた。

・前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。

・俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶3年(940年)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば弦に埋めて塚となし兜山と云う。
 
 
 
また、鎧の渡しの由来も諸説あり、やはり源義家または平将門が関わっている。
 

・源義家が奥州平定の途中、ここで嵐に遭遇し、船が沈みそうになったので、鎧一領を投じ、龍神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを「鎧が淵」と呼んだ

・平将門が兜と鎧を納めた
(兜塚では、俵藤太が埋めたことになっているが、鎧の渡しでは将門自信が納めたことになっている)
 
 
 
その後、明治7年、祭神源義家公の祭祀を廃止(!)
新たに三井家の信仰していた三囲稲荷神社の境内摂社である福神社より
大国主命と事代主命のこ分霊を勧請して合祀。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年9月23日月曜日

宝登山神社 奥宮

 
【ご祭神】
神日本磐余彦尊
大山祗神
火産霊神
 
 
 

【訪問メモ】
神社創立ゆかりの地、宝登山山頂に鎮座。
神社創立と日本武尊のエピソードは前項「宝登山神社」を参照。
 
本来であれば、宝登山神社から歩いて訪問するべきところであろうが、
連れがいたため、ロープウェイで登頂。
ロープウェイの山頂駅からは徒歩5分程度。
 
 
 
 

宝登山神社

 
【ご祭神】
神日本磐余彦尊(神武天皇)
大山祗神
火産霊神
 
 
 
 
【訪問メモ】
秩父神社・三峯神社とともに秩父三社の一社。
宝登山山頂には奥宮が鎮座。
 
 
拝殿の欄間の彫刻が鮮やか。
 
 
 
【豆知識】
神社の由緒は、いただいたパンフレットによると以下の通り。
 
今からおよそ1900年ほど前、第12代景行天皇の御代のこと、
とその軍勢が東国地方平定の折、
宝登山に登って神霊を拝したというおはなしです。
日本武尊が兵を従えて宝登山の麓へと進んで行くと、
森の中に岩に囲まれた清らかな泉がありましたので、
尊も兵もこの泉で「みそぎ」をして、身を清めました。
一隊は頂上へ向かって登り始めました。
が、しばらくすると辺りの様子がおかしい事に気がつきました。
そのうちに黒い煙がどっと吹き寄せました。
山火事です。
黒い煙は、あっという間に火の波に変わりました。
尊は兵をはげましながら、ご自分も剣を抜いて草をはらい、
枝を切って猛火と戦いました。
けれども火の勢いは強くなるばかり。
一隊は火の渦に巻き込まれて脱出することが出来ません。
尊の命も危うくなりました。
その時、突然現れたたくさんの白い影、黒い影。
影は風を切って、次々に猛火の中に飛び込んで行きます。
影のように見えたのは、大きな白犬、黒犬です。
犬たちは、荒れ狂う炎の中で火を消し止めようと大活躍です。
そのすさまじさ、ものすごさ、火の勢いは見る見る衰えていきました。
すっかり火が消えました。
犬たちの見事な働きに尊も兵も我を忘れて感嘆していますと、
犬たちは二頭、三頭また五頭と尊の前に集まって、静かに歩き始めました。
さあどうぞ、頂上へご案内いたしましょうというように。
頂上へ着くと、いつの間にか犬の姿はどこにも見えません。
影のように現れた犬たちは影のように消えていました。
「おお、やはりあの犬たちは"山の神のお使い"に違いない。
本当にありがとうございました。」
日本武尊は神様に対し、心より御礼を申し上げました。
頂上からは悠久の天地が、広大・荘厳に眺められました。
日本武尊はこの山を「火止山(ほどやま)」と名づけられ、
"神をお祀りするのにふさわしい、立派なお山"とされ、
「神籬(ひもろぎ)」(御神霊をお迎えするための憑り代)をお立てになり、
神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)
火産霊神(ほむすびのかみ)
の三社をお祀りになりました。
これが宝登山神社の御鎮座の起源であり始まりです。
その後「火止山」は霊場として栄え、
弘仁年中(810-824年)に「宝珠の玉が光り輝きながら山上に飛翔する」という神変が起こり、
山の名と神社の名はこの吉祥事により「宝登山」に改められて今に至りました。
 

2013年9月22日日曜日

和楽備神社

 
【ご祭神】
誉田別尊
 
 
【訪問メモ】
以前、蕨市に住んでいたこともあったが、行ったことがなかったので訪問。
市の大きさ(蕨市は全国一面積が狭い市)、老朽化した市役所とは対照的に、社有地は広く、新しい社殿であった。
 
 
 
【豆知識】
創建は不明だが、室町時代に蕨を所領とした足利将軍家の一族、渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡大神を奉斎したのがはじまりとのこと。
明治44年(1911)12月15日町内の18社を合祀して「和樂備神社」と改称。
 
 
 
この地で1946年(昭和21年)から開催されている成年式が成人式のルーツといわれており、神社の隣にある蕨城址公園には、「成年式発祥の地」の記念像が建っている。
 
 

2013年9月20日金曜日

水稲荷神社

 
【ご祭神】
倉稲魂大神
佐田彦大神
大宮姫大神
 
 
【訪問メモ】
会社帰りの夜間に訪問。
(そのため、写真が少ない)
 
かつては、御朱印に応じていたようだが、今は頒っていないようだ。
規模が大きくない神社では、神社に常駐することが難しく、御朱印に応じるのも負担になるのかもしれない。
 

【豆知識】
941年、藤原秀郷が冨塚の地に稲荷大神を勧請し冨塚稲荷と命名。
 
1702年(元禄15年)、神木の椋の根元より霊水が湧きだし、眼病に利くとして評判となり、火難退散の神託が下ったことから、水稲荷神社と改名。
 
1788年(天明8年)、「江戸の水稲荷」を名乗る翁が現れ、京都御所の大火に功績を認められ、「関東稲荷総領職」を賜る。
 
1963年(昭和38年) 、早稲田大学と土地交換を行い、甘泉園(清水徳川家の下屋敷)である現社地に遷座。
 
加門七海の著書『平将門魔方陣』において、 東京23区内にある平将門ゆかりの寺社の配置が北斗七星ラインを構成していると指摘しており、水稲荷神社はそのうちの一社と紹介している。
 
一方、高田崇史の著書『QED 〜ventus〜 御霊将門』における都内将門ツアーには、水稲荷神社は登場していない。
 

 
 

2013年8月31日土曜日

久須志神社


【ご祭神】
大名牟遅命
少彦名命
 
 
【訪問メモ】
おそらく御朱印をいただくのが困難な神社の一つ。
富士山頂に鎮座し、開山期間は7月中旬〜8月末までである。
 
朱印が赤黒いのは、朱に溶岩を砕いた粉を朱肉に混ぜているためである。
 
登山は、前日午後に吉田口登山口を出発し、山小屋に一泊、夜明け前に登頂を再開する行程とした。
今回は運良く、山頂で御来光を見ることができた。
 
 

 
当初の予定では、お鉢巡りを行い、浅間大社奥宮の御朱印もいただくつもりであったが、
風速20m/sの強風のため断念。
いつかまた、富士登山をすることになりそうである。
 
 
【豆知識】
久須志神社は浅間大社の末社である。
元々は薬師堂と呼ばれていたが、明治の廃仏毀釈にて久須志神社と改名され、
あわせて、ご祭神も医療神である大名牟遅命と少彦名命が祀られた。
 
大己貴命は少彦名命と力を合わせ心を一つにして天下を営んだ。
この世の人々や家畜のために、病を癒す方法を定め、鳥獣や昆虫の害を払うための呪いを定められた。
これによって、人々は今に至るまで、ことごとくその恩恵を受けている。
<日本書紀より>
 

2013年8月30日金曜日

小御岳神社

 
【ご祭神】
磐長姫命
 
 
【訪問メモ】
富士スバルラインの終点、富士山吉田口登山道の出発地に鎮座。
境内はこれから富士登山をする参拝客で溢れていた。
 

 
 
御朱印帳に御朱印をいただくと、朱印や墨が他のページを汚さないように半紙を挟んでくれるが、小御岳神社の半紙が洒落ている。
 
 
 
【豆知識】
創建は937(承平7)年。
往古は石尊大権現と呼ばれたらしいが、明治初年、神仏分離令の施行に伴い小御岳神社と称した。
ご祭神は、大山祗命の長女で、木花咲耶姫の姉である磐長姫命。
 
磐長姫命と木花咲耶姫の逸話はこちらを参照。
 

2013年8月21日水曜日

穴守稲荷神社


【ご祭神】
豊受姫命
 
 
【訪問メモ】
羽田空港に行く途中で訪問。
京急の駅名にもなっているが、羽田空港の大鳥居の祟りが有名。
 
 
【豆知識】
終戦直後、空港を接収したGHQは、大規模な拡張工事に着手。
穴守稲荷神社を強制退去させ、鳥居も何度か取り壊そうとしたが、そのたびに作業事故が起きたり、工事関係者が病気になったりして、「お稲荷様の祟り」と恐れられ、残されることになった。
 
結局、1999年に空港の沖合展開計画に伴い、すぐ近くに新滑走路建設のために鳥居は移転。
その際、作業事故等の「祟り」は起こらなかった。
 

 
なお、穴守稲荷神社の由来は以下の通り。
 
文化元年(1804年)の新田開墾の折り、海が荒れて沿岸の堤防が決壊。
村々は海水による甚大な被害を受け、村民が堤防の上に祠を勧請し、
稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらしたのが起こり。
 
 
また、神砂(あなもりの砂)の由来は以下の通り。
 
老人が漁に出て魚を釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿った砂があるだけだった。
翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかりであった。
老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、
村人たちはこれを狐の仕業として稲荷神社を取り囲み、一匹の狐を捕まえる。
しかし、老人は狐を許してそれを解き放った。
それ以降、老人が漁にでると必ず大漁となり、
篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。
老人が砂を持ち帰って家の庭にまいたところ、
客が途切れることなく訪れるようになり、老人は富を得た。
 
荏原神社の由来も、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたのが起こりである。
この付近には富をもたらす「何か」があったのであろう。
 

2013年4月23日火曜日

稲荷鬼王神社

【ご祭神】
宇迦之御魂神
鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)
 
 

 
 
 
【訪問メモ】
宮司さんが非常に親切な方で、ご朱印をいただいた後、地域の歴史や境内の説明をいただいた。
 
・かつて、この周辺には旧貴族のお屋敷が多かったこと
・旧貴族が去った後、大きな敷地が払い出され、現在は大きめなラブホテルが乱立することになったこと
・境内には「水琴窟」という装置が設置されており、竹筒に耳をあてると、地下の水音を聞くことができること
・この周辺には、かつて庭師が多く、境内にこのような装置を作ったとのこと
 
等、非常に興味深いお話を聞かせていただいた。
 
 
その他にも、東日本大震災の支援の一環として、石巻こども新聞を配布していること等をご説明いただき、頭の下がる思いであった。
 
 
【豆知識】
天保2年(1831年)、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となった。
 
と言われているが、熊野の鬼王権現は現存しておらず、「鬼王」とは何かは不明である。
将門の幼名である「外都鬼王」、または「鬼王丸」から名前を取ったという説もある。
 
なお、「鬼王」が付く神社は日本でここだけである。
 


2013年4月22日月曜日

鳥越神社

 
 
【ご祭神】
日本武尊
天児屋根命
東照宮公
 
 
【訪問メモ】
浅草橋駅から北へ徒歩10分。
境内は決して広くはないが、緑が多く、気持ちの良い神社であった。
狛犬のデザインが独特。
 


 
 
【豆知識】

651年、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされる。

その後、前九年の役征圧のため源頼義、義家父子がこの地を通った際、白い鳥が飛ぶのを見て浅瀬を知り大川(隅田川)を渡ることができた。それを白鳥明神の加護とたたえ、鳥越大明神の社号を奉った。

 
また、由緒書きにはないが、鳥越神社を将門の首が飛び越していったので「鳥越(=飛び越え)」という地名になり、この社名となったという伝説もある。また、鳥越神社には将門の手が埋められているという伝説もあるらしい。

 
加門七海は「平将門魔法陣」で、都内の将門所縁の神社を結ぶと北斗七星が浮かび上がると記しているが、この鳥越神社はその一つである。
 


 

2013年3月23日土曜日

九頭龍神社

 
【ご祭神】
九頭龍大神
 
【訪問メモ】
箱根神社の境内にある九頭龍神社(新宮)を訪問。
意外とこじんまりした社殿である。
 
九頭龍神社というと、船で渡る本宮が人気のパワースポットだが、今回の旅では寄らず。
 
鳥居の手前では、龍神水という霊水が湧き出ており、ペットボトルに汲む参拝者で賑わっていた。

箱根神社

 
【ご祭神】
箱根大神
(瓊瓊杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊の三神の総称)
 
 
【豆知識】
いただいた由緒書きによれば、
 
孝昭天皇の時代、聖占仙人が箱根山の駒ヶ岳を神体山として祀って以来、
関東の山岳信仰の一大霊場となった。
天平宝字元年(757年)、万巻上人がご神託により、現在地に里宮を創建し、
箱根三所権現と称え奉り、修験道と習合した。
 
とのこと。
 
 
また、石橋山の戦いで惨敗した源頼朝を箱根権現の別当が助けたことは有名である。
 
 
境内には日本三大仇討ちで有名な曽我兄弟を祀った曽我神社もある。