2013年1月6日日曜日

明治神宮

【ご祭神】
明治天皇
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)
 

【訪問メモ】
近所にありながら、これまで原宿・渋谷方面にはあまり縁がなかったため、約20年振りの訪問。
 
 
明治神宮の「宮」の字には、真ん中の「ノ」が無いのが正しい。
(このblogではWebの制約で表現できないので「神宮」と表記)
 

なぜ「ノ」が無いのかは明治神宮公式サイトのQ&Aをご覧ください。
(ちなみに、鹿島神宮のご朱印も宮にノがありません)
 
明治神宮-Q&A-

 

原宿駅方向の第一鳥居からスタート。
しばらく北上すると、参道が左手に折れ、大きな鳥居が現れる。
 
 
 
この大鳥居、日本最大の木製の明神鳥居とのこと。
この大鳥居に関するエピソードは明治神宮公式サイトのQ&Aが面白い。
(明治神宮の公式サイトは、よく出来ていて非常に面白い)

明治神宮-Q&A-

 

大鳥居をくぐって、参道を進み、右手に折れると、第三鳥居と南神門が現れる。
南神門は土俵入り奉納で横綱が入場してくる門として、テレビでよく見かける。
 
 
境内は、新年になって6日も経過したというのに、多くの参拝客で賑わっていた。
 
 


2013年1月3日木曜日

鹿島神宮

【ご祭神】
武甕槌大神
 
 
【訪問メモ】
 
常陸国一宮。
 
 
 
祭神の武甕槌大神(たけみかずち。建御雷神とも。)は、古事記で大国主命に国譲りを迫り、大国主命の子の建御名方神と力くらべを行い、諏訪の国まで追い詰めた神。
 
武甕槌大神は、中臣氏が常陸国・下総国出身であったという関係で、中臣氏出身の藤原氏にも篤く信仰され、経津主神とともに春日大社に勧請され、藤原氏の氏神(春日神)の1柱として祀られている。
 
春日大社の鹿は有名だが、鹿島神宮にも鹿がいる。
 
 
 
 
また、武甕槌大神は鹿島アントラーズのサポーターのスカジャンの背中にも描かれている。
 
 
 
楼門は水戸藩初代藩主・徳川頼房の奉納。
 
 
奥宮に続く、長い奥参道は樹々が鬱蒼としており、神聖な空気が流れている。
 
奥宮は本殿として奉納したものを引き移したもの。
 
 
奥宮のさらに奥には、要石がある。
 
香取神宮の項でも記載したが、かつて、徳川光圀が要石の周りを掘らせたが、7日7晩掘り続けたが、底には達しなかったという逸話が残されている。
 
 
 
また、境内にある宝物館では、国宝の直刀を拝見することができる。
重さ、長さが同じレプリカに触ることができるが、ずっしりとしてなかなかの重量。
 

香取神宮

【ご祭神】
経津主大神
 
 
【訪問メモ】
 
下総一宮。訪問時は正月三ヶ日ということで、かなりの参拝者で賑わっていた。
 
 
祭神の経津主大神は日本書紀で葦原中国平定では武甕槌神(たけみかずち)とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をした神である。
(ただし、古事記には登場しない)
 
古代、この辺りは香取海と呼ばれ、霞ヶ浦・印旛沼・手賀沼をひと続きにした広大な規模の内海だったらしく、海上交通の要であったらしい。
 
訪問時には、拝殿・本殿は工事中で全貌を拝むことができなかったが、檜皮葺きの屋根が立派な拝殿であった。
 
 
 
ところで、この香取神宮には、地震を鎮めているとされる要石が埋まっている。
 
かつて、徳川光圀が要石の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかったという逸話が残されている。
 
要石は香取海の対岸にある鹿島神宮にもあり、対となっている。
 
 
 

千葉神社

【ご祭神】
天之御中主大神(北辰妙見尊星王)
 
 
【訪問メモ】
厄除けのために訪問。
 
 
千葉神社は日本有数の妙見信仰の中心の1つである。
 
ご祭神は天之御中主大神となっているが、これは明治時代の神仏分離令により、妙見菩薩と神仏習合により同一視されている天之御中主大神に置き換えたもの。
 
元々、この神社は北斗山金剛授寺という真言宗の寺院だった。
 
 
妙見菩薩=妙見信仰とは、北の空の中心にある北極星を神格化した神であり、
陰陽道と同化し、人の寿命を司る泰山府君と同体と考えられた。
 
そのため、千葉神社は「方位除け」であり、「厄払い」なのである。

 

 
 
また、妙見菩薩の本誓は「人間界の帝王を擁護すること」にある。
 
千葉神社は、千葉氏の祖・平忠常の子によって伽藍が整備されたと伝えられるが、
その子孫である平良文は平将門(親王)と手を組んで戦い、
その子孫の千葉氏は源頼朝(後の征夷大将軍)と一緒に戦っている。
 
千葉氏は正に「妙見菩薩」的な存在である。
 
頼朝からも非常に手厚く保護されていたようだ。
 

2013年1月1日火曜日

平塚神社

【ご祭神】
 
源義家
源義綱
源義光

 
【豆知識】
由緒書きによれば、後三年の役の帰途に立ち寄った八幡太郎・源義家から下賜された鎧を清浄な地に埋め、塚を築いた。塚は「甲冑塚」とよばれ、高さが低いため「平塚」ともよばれた。
 
ここに社殿を建て、源義家、源義綱(義家の弟)、源義光(義家、義綱の弟)を「平塚三所大明神」として祀り、一族の繁栄を祈願したという。
 
 
 
ただし、この神社を有名にさせたのは内田康夫の浅見光彦シリーズであろう。
浅見光彦が母・雪江のご機嫌取りのために、境内横にある平塚亭の団子を買って帰るシーンが
度々登場する。
 
平塚亭(平塚亭つるおか)は今も健在であるが、小説にあるような緋毛氈を敷いた腰掛けはなく、
販売のみである。
今回は深夜に訪問したため、当然お店はやっていなかったが、
以前、お団子と大福をいただいたことがあり、
なかなか美味しかった。
 
 


築土神社

【ご祭神】
天津彦火邇々杵尊
相殿 平将門 菅原道真
 
 
【豆知識】
靖國神社を訪問した足で訪問。
 
ご祭神は天津彦火邇々杵尊だが、
明治の神仏分離令により教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、
新たに勧請したとのことなので、本来の主祭神は平将門。
 
相殿に菅原道真は、1994年に社殿、社務所をビル化した際に、
末社の天満宮より合祀したものなので、つい最近の話である。
 
 
由緒は、940年に京都で晒し首にされていた平将門の首を首桶に納めて持ち去り、
現在の大手町周辺の観音堂に祀って津久井明神としたのが始まり。
戦前までその首桶が残されていたが、戦災で焼失してしまったとのこと。
今では写真が残るのみである。
 
その後、江戸城の北西に社殿を造営→九段坂上付近→飯田橋付近→新宿区築土八幡町付近と
移転を繰り返し、1954年に現在の地に遷座。
 
 
【訪問メモ】
ビル化されて見つけるのが難しいが、
九段下駅出口付近のお堀と反対側をよく見ると見つけられるだろう。
 
 
参拝後、正月限定の勝守(かちまもり)をいただいてきた。
また、「築」の字から「建築工事安全お守り」というのもあるようだ。
 
 



 

靖國神社

【ご祭神】
護国の英霊 246万6千余柱
 
 
【訪問メモ】
元日の夜1時に訪問。2013年初のご朱印巡り。
 
 
【豆知識】
靖國神社は1869年(明治2年)に東京招魂社として創祀され、後に靖國神社と改称された。
 
戊辰戦争・明治維新以来の「官軍」の戦死者が祀られている。
なお、単立宗教法人であるため、神社本庁との包括関係には属していない。
 
大鳥居をくぐって参道を進んでいくと、まず現れるのが大村益次郎像。
東京招魂社の創始者である。


この像は、大村益次郎が戊辰戦争で司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を
見つめていた姿を模したもの。
因みに、今も上野の方角を見据えるように立っている。
 
 
國神社は戦後、GHQにより焼き払らわれる計画が立てられていたが、
ローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったビッテル神父の進言により
焼き払いを逃れたという。
 
「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。
それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」
 
「靖國神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」
 
「靖國神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、
排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。
我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、
いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、
すべて靖國神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」
 
 

 
靖國神社の本殿には、前述した通り、戊辰戦争・明治維新以来の官軍の戦死者が祀られているが、
摂社である鎮霊社では、ペリー来航(1853年)以来の、本殿に祀られていない日本人戦没者(民間人や、戊辰戦争の旧幕府軍や西南戦争の西郷隆盛方戦没者などの「朝敵」)と世界中の戦没者が祀られている。
 
訪問時は、夜間のため、鎮霊社は参拝できなかった。
 
 
国内、近隣諸国にて、とかく「靖國」は問題視されるが、
個人的には、靖國神社「自身」は戦前の在り方を十分反省し、
戦没者を慰霊し、世界の平和を祈る宗教施設となっている、なろうとしていると思うのだが、
いかがだろうか?
 
 
靖國神社の歴史については、高田崇史の著書「QED ventus 御霊将門」に詳しく記されている。