ご祭神 |
日本武尊
弟橘媛
豆知識 |
記紀には具体的な地名の記述はないが、日本武尊の東征にて、浦賀水道を渡る際に、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが当社の始まりともされる。
(古代の東海道は三浦半島から浦賀水道を渡って上総国に入る。江戸は徳川幕府により整備されたが、それ以前は湿地帯だった。)
上総国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めた。数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めたとされる。
この社が弟橘媛を祀る橘神社であったが、明治18年(1885年)に旗山崎が軍用地になり走水神社境内へ移され、その後明治42年(1909年)走水神社に弟橘媛が合祀された。
以下、日本書紀における弟橘媛に関する記述。
さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。
ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。
そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。
皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。
時の人は、その海を名づけて、馳水といった。
こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。
訪問メモ |
正月のため、参拝者で混み合っていたが、走水神社の宮司は常駐していないとのことなので、御朱印をいただきたい場合は、事前連絡をした上で訪問した方がよいだろう。
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