2014年1月4日土曜日

谷保天満宮



ご祭神


菅原道真

豆知識


社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。

東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。



訪問メモ


道真の三男は流人の身であるため、父を祀る廟を建てるためには、為政者の許可が必要であったであろう。
神社は谷底にあり、参道も折れ曲がっており、道真の怨霊を祀りつつ、怨霊が出てこれないような配置となっている。

大國魂神社



ご祭神


武蔵国の総社として、創建当時の武蔵国一之宮から六之宮までを祀っている。

■中殿
大國魂大神(主祭神。大国主命と同神)
御霊大神
国内諸神

■東殿
一之宮:小野大神(小野神社)
二之宮:小河大神(二宮神社)
三之宮:氷川大神(氷川神社)

■西殿
四之宮:秩父大神 (秩父神社)
五之宮:金佐奈大神(金鑚神社)
六之宮:杉山大神(杉山神社)



豆知識


古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。
これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。
大國魂神社は武蔵国の総社にあたる。

景行天皇41年5月5日に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源。
その後出雲臣の祖神天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられ社の奉仕を行ってから、代々の国造が奉仕してその祭務を行ったと伝承されている。

大化元年(645年)の 大化の改新時、武蔵の国府が社有地内に置かれて社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して国内の祭務を総轄する社となった。
国司が国内社の奉幣巡拝・神事執行等の便により国内諸神を配祀し、武蔵総社の起源になった。
その後、武蔵国内の著名の神、六所を奉祀した。

小説「帝都物語」では、第二次世界大戦の末期、敗色の濃くなった日本は大国魂神社の境内に高い鉄塔を建て、そこに大勢の僧を集めて護摩を焚き読経をし、アメリカに向かって念波を送ってルーズベルトを呪い殺そうとしたという舞台となっている。



2014年1月2日木曜日

浅草神社



ご祭神


土師真中知命
檜前浜成命
檜前武成命

豆知識


推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。
兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。
その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。
土師真中知の歿後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが当社の起源であるとしている。

明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治5年に郷社に列し、明治6年に現在の浅草神社に改称した。



浅草神社の例大祭である「三社祭」は有名。




今戸神社



ご祭神


応神天皇
伊弉諾尊
伊弉冉尊

豆知識


康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。
また、永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたといわれている。
1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。



また、この神社には、怪し気なエピソードが豊富なので、以下に紹介しておく。

■招き猫発祥の地
今戸神社は、近年になって招き猫発祥の地のひとつとして名乗りをあげている。
伝わっているところによると、江戸時代末期、界隈に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放したが、夢枕にその猫が現れ、「自分の姿を人形にしたら福徳を授かる」と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼の焼き物にして浅草神社(三社様)鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。
これが招き猫の発祥ともいわれているが当時の記録では具体的に招き猫と今戸神社との結びつきを示すものは確認されていない。

ただし、焼物として使うこの土地の粘土が良質のものだったことから、今戸焼が栄えたのは本当。



■沖田総司の終焉の地
当神社は幕末の志士・沖田総司の終焉の地ともいわれている。
これは、結核を患っていた沖田総司を診ていた松本良順が当時今戸神社を仮の住まいとしていたことからきているが、沖田総司が亡くなった地は千駄ヶ谷である。

■縁結びの神
戦前合祀された白山神社の祭神に伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦の神を祀っていることから、近年になって縁結びにゆかりがあるとアピールしている。

訪問メモ


縁結びのパワースポットとして、若い女性の間で流行っているらしく、参拝者の長蛇の列ができていた。

私見ではあるが、招き猫といい、沖田総司といい、縁結びといい、流行りに敏感で商売熱心な神社という印象。

吉原神社



ご祭神


倉稲魂命
市杵嶋姫命

豆知識


吉原といえば遊郭。
吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られていたが、この五社が明治5年に合祀され、「吉原神社」として創建。

境内には弁天池があり、弁才天(市杵嶋姫命) が祀られている。




鷲神社



ご祭神


天日鷲命
日本武尊

豆知識


酉の市で有名。

神社の由緒書きでは、日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄り、戦勝を祈願したとのことだが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まる。
明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となった。



訪問メモ


酉の市で有名な神社だけあり、神社入り口の門に大熊手が飾られている。



鷲神社の御朱印帳は鷲の絵が全面に描かれており、人気がある。
私も購入。4冊目の御朱印帳となった。



素盞雄神社



ご祭神


素盞雄大神
飛鳥大神

豆知識


延暦14年(795年)役小角の弟子・黒珍が、牛頭天王・飛鳥権現の二柱の神が降臨した奇岩(瑞光石)を祀って創建。
飛鳥権現とは何ぞや?と思い、調べてみると、事代主のことらしい。



創建以来、二柱を別々の社殿に奉斎していたが、享保3年(1718年)焼失し、同12年に瑞光殿を建築して合祀。

牛頭天王は疫病神であるため、安政5年(1858年)江戸にコレラが流行した際は疫除守を求めて参詣者が群れ集まったという。

明治初期の廃仏毀釈により祭神名を素盞雄大神・飛鳥大神へ改め、社名も素盞雄神社へ改称。

荒川区内でもっとも広い氏子区域を持つ神社である。



訪問メモ


社殿右奥にある瑞光殿で御朱印を受領。
正月期間のため、予め和紙に書かれた御朱印をいただくことになった。

2014年1月1日水曜日

森戸大明神(森戸神社)



ご祭神


大山祗命(おおやまつみのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)


豆知識


源頼朝が鎌倉幕府開幕後、三島明神の分霊を祀り社殿を建立したのが森戸神社の起源とされている。

最近では、子授けの神社として、摂社の水天宮にある石をなでると子宝に恵まれるということで有名。
家でも祈願出来る様、小さい子宝石も置いている。



訪問メモ

神社の裏にある磯から相模湾越しに見る富士山が美しく、「森戸の夕照」として、かながわの景勝50選にも選ばれている。
訪問時は海が荒れており、富士山を見ることはできなかった。





走水神社



ご祭神


日本武尊
弟橘媛



豆知識


記紀には具体的な地名の記述はないが、日本武尊の東征にて、浦賀水道を渡る際に、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが当社の始まりともされる。
(古代の東海道は三浦半島から浦賀水道を渡って上総国に入る。江戸は徳川幕府により整備されたが、それ以前は湿地帯だった。)

上総国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めた。数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めたとされる。
この社が弟橘媛を祀る橘神社であったが、明治18年(1885年)に旗山崎が軍用地になり走水神社境内へ移され、その後明治42年(1909年)走水神社に弟橘媛が合祀された。

以下、日本書紀における弟橘媛に関する記述。

さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。
ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。
そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。
皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。
時の人は、その海を名づけて、馳水といった。
こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。



訪問メモ


正月のため、参拝者で混み合っていたが、走水神社の宮司は常駐していないとのことなので、御朱印をいただきたい場合は、事前連絡をした上で訪問した方がよいだろう。

富岡八幡宮(波除八幡)



ご祭神


八幡大神
蛭子神
天照皇大神

豆知識


建久年間(1190年~1199年)源頼朝が摂津国難波の蛭子神(恵比寿神。西宮神社の末社のものと言われる。)を勧請して創建、安貞年間(1227年~1229年)に八幡神が合祀されたと云われる。

八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから別名「波除八幡」と呼ばれる。
最近では「ハマのエビス様」とも呼ばれているようだ。

東京深川の富岡八幡宮は、江戸時代初期に行なわれた深川 (江東区)の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したもの。

訪問メモ


元日の午前中に訪問。
平成25年初の神社参り。
境内は狭いが、地元の方で非常に混み合っていた。