2014年1月1日水曜日

森戸大明神(森戸神社)



ご祭神


大山祗命(おおやまつみのみこと)
事代主命(ことしろぬしのみこと)


豆知識


源頼朝が鎌倉幕府開幕後、三島明神の分霊を祀り社殿を建立したのが森戸神社の起源とされている。

最近では、子授けの神社として、摂社の水天宮にある石をなでると子宝に恵まれるということで有名。
家でも祈願出来る様、小さい子宝石も置いている。



訪問メモ

神社の裏にある磯から相模湾越しに見る富士山が美しく、「森戸の夕照」として、かながわの景勝50選にも選ばれている。
訪問時は海が荒れており、富士山を見ることはできなかった。





走水神社



ご祭神


日本武尊
弟橘媛



豆知識


記紀には具体的な地名の記述はないが、日本武尊の東征にて、浦賀水道を渡る際に、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが当社の始まりともされる。
(古代の東海道は三浦半島から浦賀水道を渡って上総国に入る。江戸は徳川幕府により整備されたが、それ以前は湿地帯だった。)

上総国へ船出した日本武尊は、海上で暴風雨に遭い、弟橘媛が海へ身を投じて暴風雨を鎮めた。数日後、海岸に弟橘媛の櫛が流れつき、村人は旗山崎(御所ヶ崎)に社を建てて櫛を納めたとされる。
この社が弟橘媛を祀る橘神社であったが、明治18年(1885年)に旗山崎が軍用地になり走水神社境内へ移され、その後明治42年(1909年)走水神社に弟橘媛が合祀された。

以下、日本書紀における弟橘媛に関する記述。

さらに相模においでになって、上総に渡ろうとされた。海を望まれて大言壮語して「こんな小さい海、飛び上ってでも渡ることができよう」と言われた。
ところが海の中ほどまで来たとき、突然暴風が起こって御船は漂流して渡ることができなかった。
そのとき皇子につき従っておられた妾があり名は弟橘媛という。穂積氏の忍山宿禰の女である。
皇子に申されるのに、「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。これはきっと海神のしわざです。賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」と。そして、言い終るとすぐ波を押しわけ海におはいりになった。暴風はすぐに止んだ。船は無事岸につけられた。
時の人は、その海を名づけて、馳水といった。
こうして、日本武尊は上総より転じて陸奥国に入られた。そのとき大きな鏡を船に掲げて、海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切って蝦夷の支配地に入られた。



訪問メモ


正月のため、参拝者で混み合っていたが、走水神社の宮司は常駐していないとのことなので、御朱印をいただきたい場合は、事前連絡をした上で訪問した方がよいだろう。

富岡八幡宮(波除八幡)



ご祭神


八幡大神
蛭子神
天照皇大神

豆知識


建久年間(1190年~1199年)源頼朝が摂津国難波の蛭子神(恵比寿神。西宮神社の末社のものと言われる。)を勧請して創建、安貞年間(1227年~1229年)に八幡神が合祀されたと云われる。

八幡宮の山が応長の大津波から富岡地区を守ったことから別名「波除八幡」と呼ばれる。
最近では「ハマのエビス様」とも呼ばれているようだ。

東京深川の富岡八幡宮は、江戸時代初期に行なわれた深川 (江東区)の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したもの。

訪問メモ


元日の午前中に訪問。
平成25年初の神社参り。
境内は狭いが、地元の方で非常に混み合っていた。




2013年11月18日月曜日

鬼子母神堂



ご尊像


鬼子母尊神

豆知識


鬼子母神堂は法明寺の飛地境内にあるお堂である。
1561年(永禄4年)山村丹右衛門が現在の目白台のあたりで鬼子母神像を井戸から掘り出し、東陽坊に祀ったのが始まりとされる。
1578年(天正6年)現在の社殿を建立。

なお、当所における正式な「鬼子母神」の表記は「鬼」の上の点がなく、ご朱印もそのようになっている。



訪問メモ


私は基本的に、神社でしかご朱印をいただかないようにしているが(お寺まで手を出すとキリがないので)、雑司が谷まで来て、鬼子母神堂に行かないわけにはいくまい。

鬼子母神堂の脇には、ひっそりと鬼子母神像が立っている。

小説「姑獲鳥の夏」の舞台となった久遠寺医院は鬼子母神堂の近くにある設定。



大鳥神社(雑司ケ谷)




ご祭神


日本武尊
〈相殿〉倉稲魂命


豆知識


元は雑司ヶ谷鬼子母神(威光山法明寺の境外仏堂・鬼子母神堂)の境内に鷺明神として祀られていた。

正徳2年(1712)松江藩主松平公の嫡男が天然痘にかかった。託宣によって鷺明神に祈願したところ、霊験を得て快癒したため、雑司ヶ谷鬼子母神の境内に祀ったのが始まり。

明治の神仏分離により、鬼子母神を氏神とすることはできなくなったので、鷺明神を大鳥神社と改称して分離し、氏神とすることになったとのこと。




訪問メモ


訪問時、ちょうど酉の市が開かれており、多くの参拝者が参拝していた。






2013年10月10日木曜日

熊野神社



【ご祭神】
櫛御気野神
伊邪那美神



【豆知識】
中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって応永年間(1394年 - 1428年)に創建。
鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていた。
鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。

神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には付近は江戸近郊の景勝地として知られていた。

その後、神社の滝や十二社池は淀橋浄水場の造成等により姿を消す。現在は、淀橋浄水場も廃止され、高層ビル街になっているが、熊野神社の一部は新宿中央公園として、新宿で働くサラリーマンのオアシスとなっている。


鎧神社

 
【ご祭神】
日本武命
大己貴命
少彦名命
平将門公
 
 
 
【豆知識】
鎧神社ホームページによると、創建は醍醐天皇の時代(898~929)。
理源大師の徒弟である 筑波の貞崇僧都、行基作と伝えられる薬師如来像がこの地に祀られ、円照寺が創建。 その際、寺の鬼門鎮護のため当社が創建されたと伝えられてる。
創建以前から、日本武命東国平定のとき、この地に甲冑六具を蔵めたという伝説もあり。
 
また、
 
・天慶三年(940)、関東に威をとなえていた平将門公が藤原秀郷によって討たれると、この地の人々はその死を悼み、天暦元年(947)、将門公の鎧を埋めたという説
 
・将門公を討った後、重病となった藤原秀郷が、 将門公の神霊の崇りであると恐れ、薬師如来を本尊とする円照寺に参詣し、将門公の鎧を埋め、祠を建ててその霊を弔ったところ、 病気がたちまち治ったという説
 
があり、鎧を埋めたのは、将門側の人間なのか、秀郷側なのか、正直よくわからない。
 
 
 
【訪問メモ】
大久保駅を降り、中央線の線路沿いに閑静な住宅街を進むと、鎧神社が現れる。
 
摂社の天神社の狛犬は全国的にも珍しい狛犬型庚申塔で、新宿区指定有形民俗文化財に指定されている。